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医療社会学研究会ニューズレター 創刊号
2008/09/27
(編集・発行)
医療社会学研究会
龍谷大学社会学部黒田研究室
〒520-2194 大津市瀬田大江町横谷1-5
tel/fax 077-543-7601
email sttng-commander-data@mail.ryukoku.ac.jp
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Ⅰ.創刊の辞―医療社会学の通常科学化をめざして―
医療社会学研究会は,1992年ころから,医療社会学者の黒田浩一郎を幹事として,大阪の地で月2~4回の研究会の開催と,何冊かの本の出版(黒田浩一郎編『現代医療の社会学』世界思想社,1995年,佐藤純一・黒田浩一郎編『医療神話の社会学』世界思想社,1998年,黒田浩一郎編『医療社会学のフロンティア』世界思想社,2001年)を行なってきました。2007年中頃に,研究会のそれまでの活動を見直し,医療社会学のさらなる通常科学化を目指して――そのあり方やその実現の方策の検討を含めて――下記のような活動を展開していくことにしました。
1.メーリングリストsocio-medの運営
研究会メンバーの間での情報伝達・交換,ディスカッションの場として。
2.研究会活動
(1)定例研究会
2~3カ月に1回の頻度で京都で開催。ゼミナールまたは学会発表形式で研究・活動などの発表。
(2)ワークショップ・セミナー
年に1~2回の頻度で開催。関西で1泊2日して。3月末の土・日に開催する春期ワークショップは,特定テーマを決め,文献の検討を通して,医療社会学がそのテーマにどのようにアプローチできるか/すべきかをディスカッションする。
3.ニューズレターの発行
3~4カ月に1回の頻度で。4.のホームページを通じて配信する。
4.ホームページの作成
ニューズレターの内容を中心に,徐々にホームページを充実させていくという方針。
5.本の出版
研究会で企画・編集する本の出版。研究会メンバーに寄稿を依頼,あるいは研究会メンバーから寄稿者を募って,共著の形で出版する。
ところで,冒頭に,この研究会は「医療社会学のさらなる通常科学化を目指して」いると書きましたが,「通常科学化」というタームで考えているのは,次のようなことです。「医療社会学」(「健康と病気の社会学」,「保健医療社会学」「健康(の)社会学」と呼ばれることもあります)は,「社会学」というディシプリン(学問)の中の専攻領域であり,その意味で,「医療社会学」は,サブ・ディシプリンというべきものですが,その専攻領域の「研究者」がある程度いて,そのような「研究者」を採用するポストがある程度あって,そのポストに就いた「研究者」が,その職務として,研究,教育(研究者養成を含めて),社会的貢献などの活動をさかんに行っている,という状態が「通常科学」であり,そのような状態に近づいて行くことが「通常科学化」です。この意味での「通常科学化」は,「医療社会学」のような専攻領域の場合,2つの競争の中で達成されなければなりません。ひとつには,社会学の中の他の専攻領域との競争があり,もうひとつには,研究対象である医療の世界のディシプリンや,医療を対象とする社会学以外のディシプリンとの競争があります。研究会の基本的な認識は,「医療社会学」は,我が国においては,こうした競争に勝ち抜いて,「通常科学」と呼べるようなものにいまだなっていない,というものです。
医療社会学研究会としては,このような意味での「医療社会学」の「通常科学化」に何らかの貢献を行っていきたいと考えていますが,会の形態としては,研究・教育機関や学会のようなフォーマルで,かつ集団としてそのメンバーシップが明確なものではなく,定期・不定期に集まる研究会や,本の出版といったマスメディアや,メーリングリストやホームページなどのインターネットメディアなどの複数のメディアを通じて,「医療社会学」の研究者や研究者をめざしている人,「医療社会学」の研究成果の利用者,何か利用できるものがありそうだと感じている人がネットワークとしてつながっているものを考えています。また,会の活動内容としては,「医療社会学」の研究,教育,社会貢献の向上に資するようなものを考えています。
このニューズレターの発行もその一環として,最新の文献の紹介,医療社会学のモデルシラバスやモデルリーディングスの提示,医療社会学の研究テーマ・課題や研究ティップスの提供などを盛り込んでいく方針です。
(研究会幹事:黒田浩一郎)
Ⅱ.運営会議
研究会では,2ヶ月に1度の頻度で運営会議を開催しています。研究会の活動の企画を行います。メンバーにはオープンされていますので,メンバーであれば,出席には事前の届出や承認の必要はありません。2008年度の今後の開催予定は以下の通りです。日時や場所の詳細はメーリングリストsocio-medで案内します。
10月11日(土)11:30~,京都タワーホテル8Fロビー
11月 6日(木)18:30~,場所は未定(大阪梅田近辺で)
12月 6日(土)11:30~,京都タワーホテル8Fロビー
2月12日(木)18:30~,場所は未定(大阪梅田近辺で)
3月14日(土)11:30~,京都タワーホテル8Fロビー
Ⅲ.定例研究会
2008年度の今後の開催予定は以下の通りです。
(1)10月例会
下記の日本保健医療社会学会第198回関西定例研究会に相乗りという格好で開催します。なお,この研究会は予約不要・会費なしで,非学会員にもオープンされています。
・日時:2008年10月11日(土) 13:00開場 / 13:30開演 / 17:30終演
・場所:キャンパスプラザ京都第2会議室(2F)
京都市下京区西洞院通塩小路下ル
Tel : 075-353-9111
●JR京都駅ビル駐車場西側・京都中央郵便局西側(駅より徒歩3分)
・第一発表:心光世津子(しんみつせつこ)氏(大阪大学医学系研究科保健学専攻助教)
「"アルコール依存症になる"体験談をいかに語るか―『保健医療』しようとする私と『社会学』しようとする私の思考と志向―」
・第二発表:本田宏治(ほんだこうじ)氏(龍谷大学矯正・保護研究センター博士研究員)
「『わが子』のドラッグ使用を語る陥穽について」
・コメンテーター:清水新二氏(奈良女子大学)
・連絡先:樫田美雄(徳島大学総合科学部樫田研究室)
tel/fax 088-656-9308
URL http://www.ias.tokushima-u.ac.jp/social/kasida/presentation/presentation.html
(2)12月例会
・日時:2008年12月6日(土) 13:00開場 / 13:30開演 / 17:00終演
・場所:キャンパスプラザ京都第2会議室(2F)
・発表者:未定
●研究会後,忘年会を開催予定です。
(3)3月例会
下記の日本保健医療社会学会関西定例研究会に相乗りという格好で開催します。なお,この研究会は予約不要・会費なしで,非学会員にもオープンされています。
・日時:2008年3月14日(土) 13:00開場 / 13:30開演 / 17:30終演
・場所:キャンパスプラザ京都第2会議室(2F)
京都市下京区西洞院通塩小路下ル
Tel : 075-353-9111
●JR京都駅ビル駐車場西側・京都中央郵便局西側(駅より徒歩3分)
・発表:立命館大学大学院先端総合学術研究科メンバーによる難病患者(ALS,筋ジストロフィー)療養支援に関する調査報告
【第1発表】
発表者名:長谷川唯・堀田義太郎
発表タイトル:難病患者の地域生活移行支援における諸課題
要旨:病状の進行に伴い在宅独居生活が困難となった事例を通じて、安定した在宅療養生活を可能とする重層的な支援体制構築のための諸課題を、入院中における支援のあり方も含めて、制度的側面と非制度的側面の双方に留意しつつ、検討する。
【第2発表】
発表者名:仲口路子
発表タイトル:難病患者の地域生活支援における諸課題――退院から在宅へ
要旨:医療を要する進行性難病患者が地域で療養生活を営むことを決意したときの支援態勢における諸課題を、長期入院から退院して独居生活を始めたALS療養者を例として、おもにMSW・ケアマネージャーのかかわりを中心に分析する。
【第3発表】
発表者名:西田美紀
発表タイトル:難病患者の地域生活支援における心理的援助についての検討
要旨:医療を要する進行性難病患者が地域で療養生活を営むための心理的課題を、独居生活が困難となったALS療養者の事例を通して、エンパワーメントとアドボケートの必要性を再考しつつ、その困難さと課題について考察する。
【第4発表】
発表者名:伊藤佳世子
発表タイトル:長期療養患者の自立支援について――筋ジストロフィーの事例から
要旨:長期療養をしている筋ジストロフィー患者は病院併設の養護学校に通う頃から入院生活をはじめ、そのまま死亡退院するケースも少なくない。2、30年病院で過ごされている方が地域に戻るためにはいくつものハードルがある。実際に30年療養生活をして、その後に地域に戻った筋ジス患者の支援を通じ、病院を出ることを阻害するものを制度面、精神面、社会的な面から明らかにする。
(研究会幹事:黒田浩一郎)
Ⅳ.2009年春期ワークショップ
2009年春のワークショップを下記のように開催予定です。詳細は目下,企画中です。
・日時:2009年3月28日(土)午後~29日(日)午前
・場所:関西(研究会会場+宿泊施設のあるところで)
・テーマ:未定
・進行:テーマを専攻領域とする研究者にファシリテイター役を依頼する。文献はファシリテイターと運営会議で選定し,そのコピーを参加者に事前に配布する。参加者は文献を事前に読んでおくことを参加条件とし,参加者の中から,何人かに文献の紹介担当を割り当てる。
(研究会幹事:黒田浩一郎)
Ⅴ.(文献紹介)Freidsonの専門職論の視座―新旧二著の比較から―
1 はじめに
Eliot Freidsonの専門職(profession)論は変化したといわれる。例えば市野川容孝は,Freidsonは1980年代にその論調を「一転」させたと指摘する。
1970年代はじめに「専門家支配」という批判を提示したフリードソンであったが,彼は,その後1980年代になると,一転して(医療)プロフェッションの再評価へと向かう(Freidson 1994)。患者の自己決定の尊重を揺るぎない原則として確認しつつも,フリードソンは,専門家と一般人の間の知識の不均衡が不可避のものとしてある以上,医療をたとえば「自由市場」原理で語り,一般の患者をそこに裸で放り出すようなことは回避すべきであり,提供される医療サービスの質をきちんと管理する責務を,医療プロフェッションは依然として果たさなければならないと主張する。……患者本人ではなく,結局は「第三者」にすぎない保険者や行政機関が,医療費削減を名目に課す,さまざまな制約に対抗して,医療プロフェッションの自律性や裁量権を保護することも必要であると述べている。(市野川 2002:27)
こうした議論は,Freidsonの議論の変化を伝えると同時に,何が不変なのかという問題を提起する。Freidsonの議論に一貫性の存在することそれ自体は,これまでにも指摘されてきた。Charlse Boskは,Freidsonの追悼論文(Bosk 2006)において,彼が「因習的理解の回避」に一貫して努めてきたことを強調する。進藤雄三は,Freidsonは「プロフェッショナリズム」という「論理」の「運用」を批判しても,「論理」それ自体は批判しなかったと指摘している(進藤 2005:38-9)。
本稿は,こうした指摘をふまえて,Freidsonの議論の不変の枠組の「中身」を検討したい。初期の著作であるProfession of Medicine(1970)と晩年のProfessionalism(2001)を比較することで,これを行う。なおFreidsonの術語はかなり変化しており,変化を一つ一つ追うと議論があまりに煩雑になるので,この点に関する言及は最小限にとどめる。
2 ディシプリンとしての専門職
Freidsonは,専門職の中核に学=ディシプリン(discipline)を見いだす。学における知識の生産(=研究)と生産された知識の応用を,専門職の営みの中核に位置付けるのである。Freidson(1970)(以下「旧Freidson」)は,専門職の営みを「科学」すなわち「方法的基礎に基づいて収集・テストされた共有知」の生産,および,そうして生産された科学的知識の応用からなる営みと見なす(Freidson 1970:347)。Freidson(2001)(以下「新Freidson」)もまた,学の知識生産と応用を併せてdisciplineと呼び,やはり専門職の主たる営みと見なす。ここでdisciplineとは「定義付けられ,知的に処理された知識・スキルの実践」であり,この「実践」には研究も含まれる(Freidson 2001:198)。なお以下では「ディシプリン」という語をFreidson(2001)の用法にならって用いる。
Freidsonは,専門職の存立には国家が深く関わっていることを指摘する。ディシプリンがディシプリンとして成立するためには,外部からの干渉をある程度排除しなければならない。外部から干渉されているようでは,「方法的基礎」に律せられた研究も,学の知識に忠実な応用もままならないだろう。こうした外部の干渉の制度的排除,すなわち「組織化された自律性」(Freidson 1970:369)あるいは「プロフェッショナリズム」=「職業成員が仕事をコントロールできる制度的状況」(Freidson 2001:198-202)は,国家による支持ないし承認抜きにはあり得ないというのが新旧Freidsonの認識である(Freidson 1970:44-46,Freidson 2001:138-141)。
Freidsonによると,こうした外部の干渉の排除を正当化するのが,専門職の営みの規律性(diciplineには「規律」という含みもある)である(Freidson 1970:137,Freidson 2001:213-216)。しかし,必ずしも専門職の自己規律は喧伝されている程のものではないというのが,新旧Freidsonの共通認識である。旧Freidsonは,米国の医療専門職に関して「自己規制(self-regulation)」すなわち成員のパフォーマンスの評価・コントロールはあまり有効に機能していないと指摘する(Freidson 1970:137-57)。特に知識の応用面において,自己規制の機能不全が観察されるという。そのため旧Freidsonは「知識を発展させる自律」はともかく「その知識を応用する実践様式を決定する自律」を専門職に与えることは「不適切」であるとまで主張する(Freidson 1970:371)。新Freidsonもまた,専門職とそれに関連する諸制度は「複雑・秘儀的な知識・スキルを具えた職業を育成し,コントロールするという専門的問題を解決することに失敗している」と指摘する(Freidson 2001:220)。
専門職の自己規制が機能しない理由について,専門職の成員が私利私欲に駆られているから,という通俗的な説明をFreidsonはとらない。旧Freidsonは,医師の「責任感」の強さを強調する(Freidson 1970:161-2)。新Freidsonもまた同様である。専門職の成員は「同業者からの尊敬」という「象徴的報酬」を求める。市場における競争からの成員の保護は「同業者の尊敬を得るための競争,すなわち仕事の質とディシプリンの発展と実践への貢献に対する賞賛をめぐる競争を強化する可能性がある」と指摘するのである(Freidson 2001:203)。
それでは,どうして自己規制は機能しないのか。旧Freidsonは,臨床医を念頭に次のように論じる。医師は,その責任感(目の前の患者を何とかしたい)の強さゆえに,臨床現場で医学的知識・技術の限界を痛感する。現行の知識・技術では治療できない疾患もあるし,各事例には「科学法則・一般原則」では対応できない程のバリエーションがある。そして医学が一般的に「有効」と主張する治療が,個々の事例において有効か否かは不確定である。各医師は,各自は自らの「直接の臨床経験(firsthand clinical experience)」に頼ることで,知識・技術と臨床現場の状況のギャップを埋めようとする。このため医師は,各自の経験を臨床における諸々の判断基準として重視する。このことは同業者との関係において他者の判断を尊重すること,つまりは他者の判断に干渉しないことを良しとする態度に結びつく。この態度が自己規制を弱める要因になる(Freidson 1970:162-4)。新Freidsonには自己規制への言及は少ない。しかし,学の知識の応用の実践は単なる学の知識の応用ではないことを指摘していること(Freidson 2001:33),専門職の営みの「コントロール」を「失敗」と評していることから(Freidson 2001:220),この点に関するFreidsonの認識に変更はないと思われる。
Freidsonは,こう主張してきたといえよう。専門職の中核にはディシプリンがあり,それは外部からの干渉を制度的に排除することで成立している。しかし専門職の営みの規律性は,外部の干渉の排除を正当化できるものではない。
3 道徳事業としての専門職
「ディシプリンとしての専門職」に加えて「道徳事業としての専門職」という視点も,Freidsonの議論にはみられる。旧Freidsonは「道徳事業家(moral entrepreneur)」としての専門家という論点を強調する。例えば病気の診断・治療も,特定の道徳的判断(何が望ましく何が望ましくないのかの判断)を含んでおり,特定の道徳の実現をめざす行為,つまり道徳事業であると指摘するのである(Freidson 1970:252-255)。新Freidsonもまた専門職の営みの道徳性を強調する。「ディシプリンの技術内容」は,各専門職の依拠する「超越的価値(transcendent value)」によって「道徳的内実」が与えられると指摘するのである(Freidson 2001:221-222)。
新旧Freidsonでは,専門職の道徳事業性に対する評価は正反対であるようにみえる。旧Freidsonは,専門職による「新たな専制の危機」を警告する。「人道主義的」修辞を駆使し,「自らの価値を他者に押しつける」「専制の危機」である(Freidson 1970:381)。
専門家が,人々に指示する権威を獲得し,さらには自らの価値に基づいて人々を拘束するなら,彼らはもはやエキスパートではない。エキスパートのふりをした新しい特権階級なのだ。(Freidson 1970:382)
他方新Freidsonは,専門職の営みの道徳事業性を守ることが「義務」であると主張する。Freidson(2001)の結びには,次のようにある。
〔専門家たちに〕自らのディシプリンの知識・技術の所有者としての権利はない。しかし道徳的遺産相続者(moral custodians)としての義務は負わなければならないのである。(Freidson 2001:222)
新旧Freidsonの主張は正反対にみえる。しかし本当に正反対なのか。まずFreidson自身の価値判断の基準が不変であることを確認しておこう。旧Freidsonは「道徳企業家であることは万人の特権」であると主張し,この意味での「道徳的平等」によって特徴付けられる「自由な社会」を擁護する立場をとる(Freidson 1970:335-340)。新Freidsonはどうか。同書に明確な記述はない。Boskは,Freidsonが「国境なき医師団,Human Right WatchやElectronic Frontier Foundationへの遺産寄付を希望していたことに触れて,彼が「市民的自由(civil liverty)」への価値を生涯奉じていたと指摘している(Bosk 2006:646)。Freidsonは一貫して「自由な社会」ないし「市民的自由」にコミットしてきたのである。
Freidsonは自由を重視する観点から専門職を評価するのだが,新旧Freidsonでは念頭においている状況が異なる。旧Freidsonは,国家とタッグを組んだ専門職対公衆という構図を想定している。旧Freidsonは「国家は,公衆が認知するニーズにどのように応えるかだけではなく……公衆は何を本当のところ求めているのかに関しても専門職の党派的意見を求めるようになった」と指摘する。そして,このことを通じて専門職の道徳が公衆に押しつけられることを指して「専制の危機」と表現したのである(Freidson 1970:350)。他方,新Freidsonは「プロフェッショナリズム(professionalism)」対「マネイジャリズム(managerism)」および「コンシューマリズム(consumerism)」というイデオロギー対立を想定している。プロフェッショナリズムは,政策論議においても実際の制度的状況においても,後二者に押され気味である。専門職は,マネイジャリズムを体現する企業に奉仕する「単なる技術的エキスパート」に堕しかねない状況にある(Freidson 2001:212)。そうなれば企業に都合の良い価値・道徳が,公衆に押しつけられる傾向が強まるだろう。これもやはり自由の危機である。そうなるより,専門職は「超越的価値」の奉仕者にとどまり,マネイジャリズムの覇権に対抗する方が自由の擁護という観点から望ましい。これが新Freidsonの判断であると思われる。
以上のように新旧Freidsonは,共に自由の擁護という観点から,道徳事業としての専門職を評価している。新旧Freidsonでは,専門職の道徳事業性の評価が正反対にみえるが,それは想定されている状況ないし問題――国家と専門職の強固なタッグを想定するか(旧Freidson),マネイジャリズム・コンシューマリズムに押されるプロフェッショナリズムを想定するか(新Freidson)――の違いに由来するのである。
4 おわりに
Freidsonの依拠してきた枠組は,以下の命題に要約されよう。①専門職の中核には,規律化された知識の生産・応用=ディシプリンがある。②このディシプリンの存立は,外部からの干渉の制度的排除(国家の支持・承認に基づくもの)にかかっている。③外部からの干渉の排除を正当化するのは,専門職の営みの規律性である(ただし,実際に観察される規律性は,干渉の排除を正当化する程のものではない)。④専門職の営みは,道徳事業としての特性を有する。⑤この道徳事業は,自由の擁護という観点から評価されるべきである。
一貫してFreidsonは,この枠組を視座として専門職を論じてきた。ただし,議論で想定されている状況・問題は様々である。想定された状況・問題の違いが,彼の論調の変化を生みだしてきたのであろう。
参考文献
Bosk,Charles, 1979, Forgive and Remember: Managing Medical Failure, Chicago, London University of Chicago Press.
Bosk, Charles, 2006, "Review Essay: Aboiding conventional understandings: the enduring legacy of Eliot Freidson", Sociology of Health and Illness, 28(5), pp637-653.
Freidson, Eliot, 1970, Profession of Medicine: A Study of the Sociology of Applied Knowledge , Chicagoand London, The University of Chicago Press.
Freidson, Eliot, 1994, Professionalism Reborn: Theory, Prophecy, and Policy, Oxford, Polity Press.
Freidson, Eliot, 2001, Professionalism: The Third Logic, Chicago, The University of Chicago Press.
市野川容孝,2002,「医療プロフェッション」,市野川容孝編,『生命倫理とは何か』,平凡社,pp22-29.
進藤雄三,2005,「医療専門職とコントロール――『自律性』の社会的規定の考察に向けて」宝月誠・進藤雄三編,『社会的コントロールの現在――新たな社会的世界の構築をめざして』,世界思想社,pp23-41.
(龍谷大学:中川輝彦)
Ⅵ.会員自己紹介―中川輝彦(龍谷大学社会学部特任講師)―
自己紹介ということで,ここでは現在進めている研究「心理学の社会学」について書きたいと思います。
この研究の理論枠組となるのは専門職論である。専門職論にも色々あるが,その主題の一つは,大学を中心に制度化された知識の生産・応用の職業化された営みである。そうした知識の生産・応用の営みが,どのように組織化され,どのような機能を果たしているのかを,医療などを事例に問うてきたのである。
「専門職」をキーワードとすることで「心理学の社会学」は「『職業としての心理学』の社会学」になる。「心理学」という職業化された知識生産・応用の営みの組織化と機能を解明することが,その課題である。現在は,心理学の応用部門,特に心理療法・カウンセリングを仕事としている人々の調査研究を進めている。同時に調査を通じて,理論枠組である専門職論の洗練も試みている。
どうして「『職業としての心理学』の社会学」なのか。「職業としての心理学」は,近代社会にアプローチするための「窓」である。「心」についての思索は近代に限った営みではないだろうが,心理学という学=ディシプリンが成立し,その応用も含め, て職業化されるというのは,間違いなく新しい。この「新しさ」の探求から「近代」のある側面を描けるのではないか。
また「職業としての心理学」は「職業としての社会学」を映す「鏡」でもある。同じようなトピックを扱いつつ,何かというと「社会」を持ちだす社会学に対して「心理」を持ちだす心理学は好対照である。社会学は,いわば「ライバル」を「鏡」とすることで,新たな自己認識を得られるのではないか。
こうした事情から,現在,研究は二つの作業の反復になっている。二つとは,「職業としての心理学」を社会学という「鏡」に映す(=社会学的に記述する)作業と,そうして描かれた「心理学」を今度は「鏡」として「職業としての社会学」を映す――ただし体系的な「社会学の社会学」には至っていない――作業である。
(龍谷大学:中川輝彦)
Ⅶ.入会のお誘い
研究会の目指すものの実現にご協力頂けるという方,あるいは研究会の活動から何らか得るところがあるという方の研究会への加入を求めます。「Ⅰ.創刊の辞」に書いたような,(1)研究会活動の少なくとも1つに参加していただくことと,(2)研究会のメーリングリストsocio-medに登録していただくことが研究会への加入条件です。加入を希望される方は,下記の要領で加入申請をお願いいたします。
・加入したい旨のメールを
・宛先は,socio@med.email.ne.jpへ
・件名を「医療社会学研究会参加希望」に
・本文に氏名,所属,ML登録希望アドレスを記入して
お送り下さい。
(研究会幹事:黒田浩一郎)