全国障害者問題研究会『障害者問題研究』Vol.30 No.3所収
下掲は、上記研究誌の特集「障害の受容と理解」に収載していただいた論文の元原稿です。同誌に掲載分は、紙数の関係で一部を割愛したかたちとなっていますので、参考までに、全文をご紹介することとしました。参考文献の全体像も確認していただけます。一方、掲載版の冒頭に
置いた「要旨」説明は省かせていただきました。
特集には、他の障害に係るレベルの高い研究論文やいくつかの障害当事者によるすぐれた手記が集められています。それらに比べるときわめて拙いものですが、ご批正を賜って、実践的にもより深化していきたいと考えています。
京都府立盲学校 岸 博実
はじめに
視覚障害児者が「見えない・見えにくい」事態にどう向き合い、それをどう捉えて生きたのかを表出した文章が無数に残されている。この国の盲人たちが音楽や鍼按などを生業として自活しえた歴史と、京都盲唖院創立以来の視覚障害教育や文化の到達がその土台になったと言える。文字の獲得・駆使と読み手集団の存在がそれを可能にしてきた。
本稿では、生徒の弁論などを通して、視覚障害者が「自らの障害観を他者に向けていかに語ってきたか」を概観し、それをふまえて今日の教育等における「自己認識」をめぐるテーマを考えてみたい。
1 「受容」をめぐる歴史から学ぶ二つのこと
(1)先覚者たちの使命感
まず、近・現代において盲人福祉を牽引する役割を果たした先人たちが、日本の視覚障害者の置かれた状況と自己のスタンスをどのように述べているか、代表的な二人の言にふれよう。
日本ライトハウスの創始者岩橋武夫は述べている。「-社会問題としての盲人-それは盲人を人間として取扱ひ、失明による欠陥を、ハンディキャップとして社会が負担保護し、以って、国民文化構成の一員としてその天分を自由に発揮せしめ、人間らしき生活の保証を与えんとする盲人解放、即ち、暗より光への運動に外ならぬ」と。【注①】
京都ライトハウスを創立した鳥居篤治郎にもよく知られた言葉がある。「目を持つことの便利と幸福とを経験しない私どもには、同時に失明の苦痛と不便とを、さまで激しく感じません。/盲目は不自由なれど盲目は不幸にあらずとしみじみ思う。/社会福祉や社会保障については、政治や法律や社会正義の徹底などによって、改正されていく。しかし精神的な問題は、環境の改善や法律的な解決策だけではどうにもならぬ面が多い。/盲人は独立すべし、されど孤立すべからず」。
【注②】
ここに吐露されているのは、理想社会をたぐりよせる事業にまい進しようとする積極的な人生観である。使命感と表現してもよい。こうした先覚者のなかには、「精神的な問題」の解決を宗教に見出した人も少なくない。しかし、岩橋も鳥居も、社会的な行為としては、視覚障害者のおかれた現実を捉え、人間らしさの追求に一貫した。
(2)国策で塗りこめた「障害」観
点字新聞『点字毎日』が創刊されたのは1922年(大正11年)である。同紙は、まもなく年1回開催の「全国盲学生雄弁大会」を開始した。現在は「全国盲学校弁論大会」と銘打ち、今年2002年にはその第71回大会を迎えた。
「全国盲学生雄弁大会」第4回(1931年)から8回までの「演説集」を閲覧する機会に恵まれた。その第5回大会の演題は「国難・新興日本・祖国愛・国家意識・国の精華・満蒙・使命・愛国・大戦」といった語句で埋められている。前年1931年9月、柳条湖の満鉄線路爆破事件を口実に関東軍が軍事行動を開始、1932年5月5・15事件、6月、特別高等警察部設置、9月内務省が国民更生運動を開始、つまり、「15年戦争」が引き起こされた時期である。自己の障害をみつめるタイプの弁論は影を潜め、「国家を意識した使命感」が前面に出るようになったのが第5回大会であった。
その時期の弁論例として第6回大会「うんとやりませう諸共に」から抄出する。
「しかも現下非常時の国家切に愛国の士(点字原本では「シ」。志?)を切望している時においてをや。今こそ九千万の同胞否我ら盲学生こそ真に覚醒し一致協力この刻苦艱難なる時に善処しなければならないのであります。高きものは高きものとし低きものも不遇なるものもその分に応じ境遇に準じ尽忠報告の道にいそしまなければなりません。しかるにとかく盲人はいたずらに身の不遇を嘆くのみにて受くることを知って与うることを知らぬ傾向があるのであります。しかし一度命を的にあらゆる苦難と戦う第一線の将士を思う時また尊き犠牲となり護国の柱石と化した遺族の人々の悲嘆を偲ぶ時など私ども一人我が身の不遇を嘆く時でありましょうか。決して逆境の辛酸に泣くべきでありません。(中略)況や聖代の恩沢に浴し学校教育の機会に遭いたる我等今こそおおいに奮い立つべきでありなんぞ安閑としておられる時でありましょうか。(中略)四海同胞ちょう自覚のもとに一致協力することでなくてはならないのであります。おー、全国盲学生諸君よ、いな満堂の諸君よ、我々は大局より見て同じ条件の上に立つもの同士であります。今こそお互いに文字通りしっかりと手を握り合い、この非常時に際しうんとやりましょう諸共に、諸共にうんと励もうではありませんか。」
実際のフレーズが壇上からどのような息づかいで語られたのか、文字からだけでは判断しにくい。だが、「尽忠報国」の時代状況が色濃く投影した弁論であるのは否定できまい。大正デモクラシーからも人道主義からも遠く隔たって聞こえる。視覚障害の「受容」という角度から分析すれば、要するに、視覚障害からくる不遇を嘆くなというわけである。生活苦や侮辱される境遇に放置された現実があるからこそ「嘆き」が出てくるのだが、それを事実として認識し、解決をめざす生き方ではなく、「泣かずに耐える」のが美徳であると唱えられている。戦下の「挙国一致」と「聖代の恩恵」をもって、すべてに耐えよう・耐えさせようとするのは、「国策で塗りこめ(られ)た障害観」というべきではなかろうか。
それから約70年を経て、「有事」が取りざたされる局面にある。「国家主義」思潮で国民の意識を圧迫し、コントロールする時代を再現させてはならない。
2 民主主義と人間の尊厳を土台に
(1)人とのかかわりと自己の尊厳の発見
戦後の「全国盲学校弁論大会」の演題は、思想・信条や表現の自由を基調に、社会と人間を考える方向へと転じ、第24回大会『平和のともしび』、第26回大会『友情論』などの優れた主張を育んできた。
部分抽出のみとなるが、次に紹介するのはいずれも他者とのかかわりを通して自己を発見し、前向きに生きていこうとする論旨である。
第34回大会「理解されない盲人」 ― 「僕はその時、初めて社会に出て働いている人たちや一般の中学生、高校生、あるいは看護婦さんなど多くの人たちといろんな話をすることができたのです。そして、その結論として、知ったことは、社会の人たちは盲人のことを正しく理解してくれていない。(中略)みんなは言いました。『盲人はみんなひがみ根性を持った、陰気なやつばかりなんだろう』『目が見えないんだから自分のことも何もできず、将来はあんまにしかなれないんだろう』。(中略)みなさん!僕たち盲人のことは、全く理解されていません。しかし、こうやって深く話し合えば、僕たちの姿を見てもらえれば、きっと、きっと分ってもらえる」。【注③】
第40回大会「ある感動」 ― 「その人は、下半身の循環障害で、夏でも足は冷たく、いつもしびれていて、いくら医者にかかっても一向によくならないということでした。気の毒に思った私は、両足を一生懸命マッサージし、そのあとツボを選んで数カ所、鍼治療をしてあげました。すると、どうでしょう。そのおばあさんは『お姉ちゃん、足が温こうなった。血の流れとるのが、よう分かる。今まで、こんなことはなかったのに』と言って、涙を流さんばかりに喜んでくれたのです。『えっ、おばあさん、ホントですか。ありがとう。本当にありがとう』。私は思わず、そう言ってしまいました。うれしかったのです。うれしくて、うれしくて、ひとりでに涙がこぼれたほどでした。『そうだ、この仕事に一生をささげよう。これほど人が喜んでくれる素晴らしい職業が、ほかにあるでしょうか』。私はその時、ハッキリと決心したのです」。【注④】
第52回大会「私のみつけた青い鳥」 ― 「母に手を引かれていたころは、席を譲ってもらっても、それほどありがたいとは感じなかったのですが、一人で歩くようになってからは、どんな小さな親切も、本当にありがたいと思うようになりました。バスの中で席を譲ってくださった女の方に、心から『ありがとうございました』と言うと、その方は『あなたのように、素直に好意を受けてもらうと、こちらも気持ちよく手を貸してあげることができます。私たちも、あなた方へいろいろ協力したいのですが、あなた方のことをよく知らないために、どうしてよいか分らず、つい見過ごしてしまうのですよ』と言われました。障害者の完全参加と平等という目標も、私たちが進んで健常者の中に入っていって、お互いに理解することによって実現するものではないでしょうか。こうして、人の好意をありがたいと思うようになった私は、自分も何か少しでも人の役に立つことがしたいと思い(後略)」。【注⑤】
これらの弁論に共通するのは、なんらかの観念や思潮に支配されるのでなく、自己の体験をくぐった文章であり、具体的な他者とのかかわりを通じて自分の価値を発見する内容になっている点であろう。対話、職業、生活行動の自立を通じて自己の自由を広げることによって障害そのものが深く捉え直されている。
(2)近年の多彩さの奥にあるもの
では、近年の「全国盲学校弁論大会全国大会」ではどのような弁論が発表されているか。
演題だけを列挙してみる。【注⑥】
1998年第67回「『天国の会議』によせて」「夢、かなえるために」「自分を信じてあげたい」「出会いをいのちの輝きに」「私の経過」「ふり返る人生は、もういらない」 「24歳の私」「ボランティア」「くれくれ福祉と差別」。
1999年第68回「本当の自分が輝く朝(とき)に」「学校生活で思うこと」「振り返ってそして前を向いて」「夢に向かって」「母の涙」「見ていて下さい、私の生きかたを」 「留学生活から見つけたもの」「甲子園が与えてくれたもの」「私の新しい人生」。
2000年第69回「私のバリアフリー」「私は言いたい」「野菜作りに思いを寄せて」 「コーラス」「明日を広げるために」「タンポポの夢」「手紙」「木の葉の様な命でなく」「心の中の葛藤『十七才って』」。
2001年第70回「失敗してもいいじゃないか、人間だもの」「それが私だから」「素直な心で」「私のベストパートナー」「新しい一歩」「ひとつの出会い」「輝きたい」「自分の夢を信じて」「ずっと一緒だよ」。
多彩である。タイトルそのものもに語り手の個性やそれぞれの体験・価値観の多様さが読み取れる。それは個々の経験がたまたまそうであったというのではなく、盲学校に在籍する生徒の構成が大きく様変わりしてきた経緯とも関連していよう。戦後、弱視・ロービジョンの生徒が増えてきたこと、最近は糖尿病や網膜色素変性症などによって中途失明する中・高年が増え、社会復帰をめざして盲学校の理療科などに入学してくるケースが増えていること、「鍼、灸、あんま・マッサージ・指圧」や音楽といった伝統的な職種だけでなく幅広い進路に向けて繰り広げられる努力が反映されるようになったこと、視覚以外の障害をあわせもった重複生も積極的に発言するようになっていること、さらに障害者の「人間としての尊厳」をめぐる認識と社会的サポートの変化などが豊かな彩りを支えている。
(3)「母の涙」と「私の夢」
第68回大会で語られた「母の涙」という弁論は出版【注⑦】されベストセラーにもなったが、その作者は「生まれた時の体重が500グラムしか」しかないいわゆる超未熟児であった。「生まれて5カ月ぐらいになると、保育器から出て、初めて母に抱かれました。その軽さに母は『よくここまで生きてこれたね。よく頑張ったね。偉かったね』と言って、泣いたそうです。」この子は、「転んでけがをしても知らん顔です。『あんたが注意して歩かんからやろ。痛かったら、もっと気をつけて遊ばんね』。母の言葉はそれだけ」という養育をされている。二人で自転車乗りの練習をする場面は感動的である。「ある日、私が公園のブランコに乗って遊んでいると、男の子が3人やって来るなり、私の顔をのぞきこんで、こう言いました。『こんやつは目が見えんばい』。その時、母がそばに来て『目が見えんけん何ね。こん子はあんたたちよりよっぽど頑張りやで、思いやりがあるとよ。分かったね』と言いました。そしたら、その子たちが『おばちゃん、ごめん』と言って,一緒に遊んでくれました。」「いま、私は中学3年になりました。今でも母には、いろいろなことを教えてもらっています。人に思いやりを持つこと、やろうと思ったらできるまで頑張ること、礼儀作法をきちんと守ることなどです。私は、そんな母が大好きです。私は目が見えないので、たくさんのことはできないかもしれません。でも、努力することは出来ます。今度は、母に喜びの涙を流してもらいたいと思います。それは、ふいてもふいてもあふれ出てくる、喜びと幸せの涙です。それは、私が私の夢を実現できた時にかなうことでしょう。」
身近に深い理解者が存在して心を通わせあえること、自己の内部から湧きあがり突き動かし続ける夢や希望があること、この二つは、視覚障害者だけでなく、人間誰しもが社会と自分への信頼を失わずに生きていくために欠かすことができない。「こん子はあんたたちより」という比較表現については異論もりうるだろうが。
(4)2002年の弁論「この眼が好き」
2002年6月に開催された近畿盲学校弁論大会(全国盲学校弁論大会の予選を兼ねる)で発表された弁論に、注目された論旨がある。【注⑧】
A 「私も決してよく見える方ではないし、身体だって健康とは全然言えません。でも、それを苦しいだとか、辛い、不便などと感じることはありません。全くないわけでもないんです。でも、たいていのことは工夫すればなんとでもなるんですから。/障害者に対して、周りはかわいそうだと言いますが、私はそうでもないと思います。なぜなら、その人はその障害や不便さに慣れて生活しているんですから、それをかわいそうだというのは変だと思いませんか?その人はその人のやり方で過ごしやすいように生活すればそれでいいのではないでしょうか?/(中略)私はもっと見えるようになりたい、もっと健康な身体だったらいいのになんて全く思いません。寝たきりでいようが、走り回っていようが、障害があろうがなかろうが、『生きている。』と感じることができるなら、それ以上の望みはありません」。
B 「私は今の自分が大好きです。今だれかに『もし眼が治るとしたらどうする?なおす?』と聞かれたら、『いいや、このまんまでおる。』と答えます。/たいていの人はびっくりするかもしれませんが、私はもし眼が治るとしてもこのままでいます。なぜなら私は今の自分の眼がとても気に入っているからです。/(中略)私は昔に比べてかなり視力は落ちました。だからすこし不便になったりできなくなった事もあるかもしれません。しかし、そんな事より私は視力が落ちたからこそ得られたものの方がずっと大きいような気がするのです。/例えば、視覚に障害を持った私が今ここにいるからまわりの友達は視覚障害者ととても自然に接してくれる事で『障害者は一人では何もできない。だから、自分たちが世話をしてあげる。』という考えから『障害者はたいていの事は一人でできるんだ。』という考えになり、やがては『人はみんな違った特徴を持っている。例えば視力がとても低かったり・・・。』という考えにいつしか変っていました。それ以来友達は障害者だけでなく、まわりの人たちみんなに対してもお互いを認め合える様になっていたように思います。/私自身は障害を持っているためにぶち当たる困難を乗り越えるのがとても楽しく感じられるようになりました。それは私にとってはちょうど障子をぶち破りながら突き進むときに感じる快感ととてもよく似ています。/私が今言えるのはここまでです。あとはっきりいえることは私は今の自分の眼がとても大好きだということです。だって今の自分は視覚に障害を持っていたからこそ成り立っているのですから。/だから私はこれからも自分の眼を大切にしていきます。『視覚に障害があったからこそ得られたもの』の本当の答えは言葉にできなくてもかまいません。いや、答えなんかどこにも無くていいから私は今の自分の眼を大切に生きていきたいです。そしてそれは自分の眼だけでなく、自分自身を大切に生きていくという事なのです」。
Aは高等部普通科の生徒、Bは中学部の生徒である。Aは4位に、Bは1位に入賞した。いずれも、「もっと見えるようになりたいとは思わない」「もし眼が治るとしてもこのままで(いい)」と言い切っている。その上で、Aは「不便などと感じることはありません。(中略)たいていのことは工夫すればなんとでもなるんですから。(中略)その人のやり方で過ごしやすいように生活すればそれでいいのではないでしょうか?」と問いかけ、Bは「今の自分の眼がとても大好きだということです。だって今の自分は視覚に障害を持っていたからこそ成り立っているのですから」とアピールしている。ここには、不便をもクリアしつつ、かといって、障害を個性一般に還元はせずに自己の存在のあり方に深くかかわりあるものとして位置づけ、胸を張って生きようとする姿が立ち現れている。外部のイデオロギーにでなく、なによりも「自己」を信頼し、自分らしさを大切にして生きていこうとする障害観・新しい存在証明のあり方を見いだすことができる。
現在でもしばしば用いられる「障害の克服」という観念をつきぬけた、「障害が好き」というこの感情や認識は今後どう発展していくのであろうか。いなおり・誇示・優越感などに引き寄せられず、障害のある仲間やいわゆる健常者とも共感・共同の関係を強め、すべての障害者・国民に人としての尊厳が保障される社会をめざして手を携える方向への発展を期待したい。
3 受容の場面・局面に即して
ここまで概観してきたのは、「すでに表出された」内面であった。おそらくたやすくは進まなかったであろう「受容の過程」を基本的にはくぐりぬけ、読者や聴衆にむかって「表出」できるほどに整理され、弁論として磨きぬかれた作品であった。
現在の課題を考えるとき、いまだ「受容」「表出」が困難な状態にある人にとっての壁の高さやストレスを解消・軽減するための支援が切実に求められている。
上に示したような典型的な弁論や先覚者の生き方を先行モデルとして提示するだけではすまないケースがあるし、そうしたやり方ではかえって拒否感情や自信喪失を生まないともかぎらない。以下、「視覚障害の受容」をめぐるいくつかの留意点などを考えてみたい。
(1)医療・告知
人が自らの視覚障害に最初に直面するのはおおむね医療の場である。治療を経て、障害としての不可逆的な固定ないし将来の進行を「告知」する眼科医や視能訓練士・看護士が「障害受容」にむけた最初のシグナルを鳴らす役割を担うことが多い。近年、「治療には熱心だが、障害へのアプローチはどうであったか」という反省が眼科関係者から語られるようになり、「見えない」「見えにくい」「見えなくなる」事態をどう受けとめるかを、患者の心理や境遇への配慮を伴ったかたちで検討し、より適切な教育・リハビリテーション、福祉、労働、QOLの向上などへとつなげていく努力が広がりつつある。
特に人生の中途での失明は、それまで「あたりまえにできていた」ことが「できなくなる」という衝撃を伴い、深い絶望感を生みがちである。「できなくなった」中身を冷静に分析し、残された感覚を生かして「できる」こと、訓練や補助具の利用で「できるようになりうる」こと、「どうしてもできない」ことに対する社会的なフォロー(不十分とはいえ)などを具体的に伝えていく最初の仕事に期待されるものは大きい。病院内での視覚障害への配慮ある診療・看護とともに、病院外での学習や生活に接続するための援助が求められる。それらを受けとめることによって、喪失感にさいなまれる状態から、自己と将来への信頼・希望を回復し、それまでに自己が形づくってきた世界を、新たな条件のもとで組み立てなおす歩みに出発していける。
(2)視覚障害児
子どもが自らの障害を認識していく行程も一通りではない。障害の発生時期、「見えた」経験の有無・その量や質、またその記憶のレベル、重複障害の有無、家族構成や就学様態の違いなど、様々な要素が考えられるからである。
先天的ないし幼児期までに失明した子どもの場合、「見る・見える」ことそのものを意識化しにくい。育ちの過程で「自分には『見えないためにできない』ことがあるらしい」と気づかされていく。自分にとっては「あたりまえ」の「見えない」ことの今日的な現れを、さまざまな経験や他者・社会への関与を通して徐々にあるいはショックを伴って理解していく。
発達段階などに配慮した「障害認識」の教育課程が構想される必要がある。実践と研究の両面でのいっそうの蓄積が期待される。
少年期以降に失明した子どもの場合、それが事故や病気によって突然おそってきたものか、漸減的に視力低下がもたらされたものかによって、視認経験などにちがいがあり、自己の障害の受けとめ方にも特徴が生じてくる。思春期、青年期の失明には、人間としての心の揺れに重なるかたちで視覚障害への対処が問われ、それまでに形成してきた友人などとの関係に変化がもたらされることもある事態にどう対応していくかという繊細な状況もおそってくる。注意深い援助が必要となる。
盲学校においては、子どもの発達などをふまえて、自立活動の時間を軸に「障害とつきあいながら生きる」意志と力を育む取り組みが展開されている。訓練主義への陥りを排しながら、障害からくる諸困難を軽減することとあわせて、それぞれの子どもがもっている可能性を最大限に引き出すことが目的である。同じ校舎・教室の中に、同じような障害のある仲間が存在すること自体がピュアカウンセリングの条件となっているし、それぞれの子どもが行っている工夫や努力に自然に学びあえるのが盲学校の魅力の一つである。
弱視の児童・生徒の場合、「見えにくさ」を正確に捉えることが、本人にも周囲の人々にとっても難しい。ややもすると、「見えにくい」ことを隠そうとしたり、「見えにくい」ことに逃げ込む心理も働いたりしやすいので、安心できる人間関係をていねいに形成していくことが重要なポイントとなる。
最近、各盲学校では、一般の小・中学校などに在籍して「統合教育」スタイルの処遇をうけている子どもたちを対象にした教育相談などを積極的に行っている。京都府立盲学校では、その一環として、一般校に在籍している児童・生徒と盲学校に在籍している児童・生徒が、一堂に会して「フロアバレー」「盲人卓球」「理科の実験」などを行い、交流する機会づくりに着手している。これは、双方にとって意味があると考えられる。一般校在籍者にとっては、ともすると疎外されがちな実技・実験の分野で視覚障害に配慮した遊びや学びを享受し、内在している興味・関心とエネルギーを存分に発揮できる。盲学校在籍者にとっては、日常よりも人数が多い学習集団に入ってのダイナミックな活動を経験し、一般校の雰囲気などを吸収することができる。そして、いずれもが新たな出会いを通して、「自分と仲間の障害」をそれまで気づきにくかった角度から考え直し、それぞれの経験や意見に学びあえる。そこには豊かな広がる可能性のフィールドがある。
活動上の個々の制約をより少なくし、行動や情報へのアクセスの自由を広げていくことは視覚障害者にとって格別に大きな価値をもつ。教育的サービスも、それらを実現するために力点を注がねばならない。だが、とぎすまして言うならば、「視覚障害からくる教育的ニーズ」に応える教育的支援・サービスの根幹は、「視覚障害児者自身が、自己の障害を(悲観にも楽観にも傾かず)事実にもとづいて正確に認識し、視覚障害者などが豊かに生きていくうえでの課題を解決するための意欲や基礎力を形成する」ことへの支援にあるのではないか。その際、いわゆる専門家のひとりよがりは許されないが、「自己決定」だけがよい結果をもたらすともかぎらないので、留意を要する。「障害の受容」をめぐる教育プロセスや方法論のいっそうの解明が望まれる。
(3)成人の中途失明者
鍼、灸、按摩・マッサージ・指圧師の資格を取得するために盲学校の理療科などに入学する中・高年の中途失明者が増えている。「一人前の大人」(それ自体、一つのイデオロギーに影響された観念なのだが)として仕事や社会生活を営んできた人たちが視力障害にみまわれ、それまで営々と蓄積してきたものを失うときの打撃は大きい。盲学校の門をたたくまでに、更生施設などで点字や歩行の訓練を経験済みの人もあるが、「点字の触読になじめない」とか「人前で白杖を利用するのに心理的な負担感がある」という場合も見られる。鍼灸などの資格を得て家族の暮らしを再建する決意はしたものの「近所の人には盲学校に在籍していることを明かせない」という気持ちをひきずっている人もないわけではない。
中途失明者の「受容」過程も、残存視力の状態、環境、人柄などによって一様ではないので、機械的な対応は適切でない。一人一人の率直な真情を安心して表出できる接し方でのカウンセリングが非常に大切となる。用意されているメニューや受容プログラムに単純に当てはめようとしてはならず、「ほかならぬその人」の不安の中身とニーズを明らかに把握することから出発し、本人が自己回復・再建への主人公になれるような対話や情報へのアクセス支援をていねいに行うことが重要である。
「自己の視覚障害を受任する」のは、たやすいことではない。不安が長引くこともある。
視力などの減退が徐々に進行していくような場合、「完全に見えなくなったら」という不安にしばしば襲われる。その軽減には時間がかかることを念頭においたケアが欠かせない。
(4)視覚障害児の親
親や家族にとって、「子どもの障害を受け入れる」のはなかなかに難しい。障害が重複している場合、いっそう複雑さを増す。いくら正しいアドバイスであっても、あまりにストレートすぎる専門家のアプローチにはうなづきにくい。甘やかしなどに関する批判も急ぎすぎず、親の気持ちとその周囲の事情への共感を明確に伝えるなどをベースに、さりげないフォローを積み重ねていくことが大切であろう。子どもに身体障害者手帳や白杖を持たせることへの抵抗感を示す保護者にも、子どもや家族の生活実態によりそいながら、権利として保障されるさまざまな制度の活用の道があることを紹介し、選び取っていただくような働きかけが大切となる。
2001年度全日本盲学校教育研究大会の冒頭、数名の保護者が視覚障害児を育てた体験発表した中に次のような言葉がある。【注⑨】「息子の全てを受け入れよう。そして思いっきり愛そう。」「家族とたくさんの体験をさせよう。」「自分のすべてを受け入れ、どんなに未熟でも自分たちを信じて今の自分を否定しない、誰のせいにもしない、自分と向き合って楽しんで生きようと考えられるようになりました。」「眼が見えないことから逃げないこと!」。生徒の弁論が高まってきたように、親の意識にもすでに大きな変化がみられる。そのことも承知しておき、親から学ぶ姿勢が必要である。
おわりに
かつて「障害だけをみるのでなく」という視点が強調された。「障害のために生ずる否定的な諸条件をどう受け入れるかを個々人のみに問う」ものとなる面があったことへの反省も指摘された。社会的なバリアの打破に眼が向けられる契機となった。
今、「人間だけを強調するのでよいか」「社会的諸条件の整備だけで、障害者ひとりひとりの問題は解決するか」とさらに問い返されている。「事実に即しより多面的に吟味して自己の価値と障害の意味を確かめ、『この眼が好き』と表明しうる」までになってきた。非科学的な宿命論などへの回帰は許されない。
「視覚障害からくる不便」を可能なかぎり少なくし、「障害受容」のハードルを低くするためにも、社会の側の変革が引き続き重要な課題である。あわせて、かけがえのないひとりひとりの人間が、孤立することなく、障害観を発達させ、社会を変革する諸活動にも加わりながら力強く生きていく人格を形成していけるよう、医療・心理・教育・福祉などの機関やスタッフのネットワークをつくり、患者・障害者が主体となってそれを利用できるシステムとして確立することが求められる。【注⑩】
<注>
①谷合侑『盲人の歴史』(明石書店1996年)
②赤坂一著『盲先覚者シリーズ5鳥居篤治郎 世界に眼を・永遠の青年』(日本盲人福祉研究会1988年)
③点字毎日活字版2001年7月19日付8面掲載
④点字毎日活字版2001年8月16日付8面掲載
⑤点字毎日活字版2001年10月25日付8面掲載
⑥1998~2001年の各大会プログラムより
⑦井上美由紀著『生きてます 15歳』(ポプラ社2000年)
⑧平成14年度近畿盲学校弁論大会原稿集
⑨『視覚障害教育第95号全国研究大会・北海道大会特集』(全日本盲学校教育研究会2002年)
参考文献
・松本征二監修・樋口正純訳トマス・J・キャロル『失明』(日本盲人連合会1977年 )
・上田敏著『リハビリテーションを考える』(青木書店1983年)
・「視覚障害青年のアイデンティティーに関する研究Ⅰ」―面接法による障害の受容を把握する試み― 間々田和彦 伊藤精英(日本特殊教育学会第32回大会発表論文集)
・「視覚障害者の障害受容に関する研究 Ⅱ」―視覚障害青年の自己受容の発達について― 朝居豊泰・伊藤精英・間々田和彦(日本教育心理学会第34回総会発表論集)
・平野日出男「子どもは障害を受けとめる 視力障害児の教育にとりくんで」(『みんなのねがい』130号1980年)
・永井昌彦「視力を失った私の半生 母校の英語教師として」(同上)
・インタビュー 教員採用試験にパスして 母校の教壇に立つ有本圭希さん(日本盲人福祉研究会『視覚障害』1980年NO,48)
・赤座憲久『目の見えぬ子ら ―点字の作文をそだてるー』(岩波新書1961年)
・『弱視教育』第三十九巻第四号(日本弱視教育研究会)
・窪島務『障害児の教育学』(青木書店1988年)
・太田仁史監修 南雲直ニ著『障害受容 意味論からの問い』(荘道社1998年)
・石川准・長瀬修編著『障害学への招待』(明石書店1999年)
・茂木俊彦著『新障害児教育入門』(JUNPO 1995年)
・香川邦生編著『改訂版 視覚障害教育に携わる方のために』(慶應義塾大学出版会2000年)
・伊藤千佳子編『障害者福祉シリーズ1 障害をもつということ』(一橋出版2002年)
・大貫敬一・佐々木正宏共著『適応と援助の心理学 適応編』(培風館1998年)
・高橋流里子著『障害者の人権とリハビリテーション』(中央法規2000年)
・大川原潔・香川邦生・瀬尾政雄・鈴木篤・千田耕基編『視力の弱い子どもの理解と支援』(教育出版1999年)
・茂木俊彦・荒川智・齋藤繁編『障害児教育改革の焦点』(全障研出版部2002年)
・特別なニーズ教育とインテグレーション学会編『特別なニーズと教育改革』(クリエイツかもがわ2002年)
・梁嶋謙次・石田みさ子編集『ロービジョンケアマニュアル』(南江堂2000年)
・高橋弘編集『ロービジョンケアの実際 視覚障害者のQOL向上のために』(医学書院 2002年)
・中田洋二郎著『子どもの障害をどう受容するか 家族支援と援助者の役割』(大月書店 2002年)