第二章 日本政府の対応
第一節 無関心と差別意識
「米ソ協定」下の引揚げにおいて
前述のように、戦後のサハリンからの引揚げはアメリカ、ソ連の主導によるものであった。両国は朝鮮人を「解放国民」とみなしていた。それにもかかわらず、なぜ朝鮮人はその対象から外されたのか。また、このとき日本政府はどの程度関与していたのか。その真相については未だはっきりしていない。引揚げ事業当時の日本政府の姿勢を示す公文書は未見であるが、1975年に提起された「サハリン裁判」においてその責任を問われた際、日本政府は次のように主張している。
「終戦後の引揚げは連合国の責任の下で遂行されたものであり、その際連合国が引揚げの対象者から朝鮮人を除外したとしても、被告国は、この点についての関与を認められなかったという事情がある」(第2回口頭弁論、1976年4月2日)[i]
確かに引揚げが連合国の主導で行われた以上、連合国にも責任があるのは間違いないが、果たして日本政府は「関与を認められなかった」として責任を免れることができるのだろうか。ここでは、「連合国の責任」について考察した上で、日本政府の責任について考察してみたい。なお、このことに関しては大沼保昭氏が当時のGHQ関係者への聞き取り調査、アメリカの公文書館に保存されている引揚げ事業に関する史料をもとに詳しく検証(ソ連については史料の調査、関係者への聞き取り調査ができなかったため、当時のソ連政府の政策から推察)しており、以下の記述は大沼氏の研究に負うところが大きい。
まずソ連の姿勢についてである。ソ連は第二次世界大戦、主にナチス・ドイツとの激しい戦闘で2000万人以上の犠牲者を出し、国土、経済の荒廃は深刻であった。そのため、戦後復興は切迫した問題であった。対日参戦の結果占領することとなった南サハリンにおいても、生産力の向上が急がれたが、国土全体が労働者不足にあえいでいる状態では、ソ連本土から労働者を移入するだけの余裕はなかった。そこでサハリンに残っていた日本人、朝鮮人を労働力として確保しようとしていたため、ソ連は引揚げ事業自体に対して消極的であり、そのことが朝鮮人置き去りに影響したことは否めないだろう。
また、GHQの姿勢はどうだったのか。大沼氏によれば、GHQ関係者はそもそもサハリンに朝鮮人がいること自体を十分認識していなかったようである。「米ソ協定」締結に向けたソ連との交渉過程を示す資料にも、GHQの担当者がサハリンに朝鮮人がいることを意識した形跡はなかったという。その後GHQ内でサハリンにいる朝鮮人についての議論がなされたのは資料を見る限り三回あったが、いずれも外部からの請願によるものだったという。一回目は、「内地転用」[ii]となった元炭坑夫18人から1945年12月に出された請願によるもの、二回目は「サハリンからの朝鮮人早期帰還連盟」というソウルの民間団体から1947年10月に出された請願によるもので、これらに関してはGHQがソ連に働きかけることもあったが、ソ連からの回答はなく、そのまま放置された。三回目は1949年4月から6月にかけての駐日韓国代表部からの請願であるが、これについては、韓ソ双方と国交のある国への仲介を示唆する非公式の書簡を送っただけで問題を処理したという。つまり、GHQの態度は一貫して受動的で、引揚げに消極的なソ連を押し切って朝鮮人を帰還させようとの意志は希薄であったと考えられる。これには、サハリンの朝鮮人は大部分が朝鮮半島南部の出身であるが、当時南朝鮮を支配していた米軍政庁は逼迫する経済危機への対応に追われていて、帰還者の受け入れに消極的だったことも要因として挙げられる。
では、日本政府の責任についてはどうなのか。確かに主導的な発言をする権利はなかったが、「関与を認められなかった」という主張には疑問がある。
GHQによる引揚げ事業の対象者はアジアの全地域を合わせると800万人を超えていたといわれる。これをごく限られたスタッフしかいないGHQが単独で行うには無理がある。実際は、占領軍が指令を出し、それを日本政府が実行するという形で進められ、その際の情報提供も日本政府が行った。それだけでなく、日本政府は日本人の引揚げには非常に熱心で、GHQに対し早期引揚げの要請を何度も繰り返していた[iii]。
従って、日本政府の主張は正当性に欠ける。GHQへの情報提供、そして早期引揚げの要請を行う段階で、サハリンに連行した朝鮮人の帰還について言及することは不可能ではなかったのであり、それを行う責任があったはずである。実際GHQは民間の朝鮮人からの請願にさえ応えているのである。しかし、大沼氏によれば当時の外務省、内務省史料、関係者からの聞き取り調査からも、サハリンの朝鮮人の帰還について日本政府が考慮していた形跡はみられなかったという[iv]。日本人の引揚げを熱心に要請する一方で、かつて「帝国臣民」として連行した朝鮮人に対しては「もう日本人ではなくなるのだから面倒を見る必要はない」と言わんばかりに無関心な態度をとり続けた日本政府の責任は大きい。
主権回復後の引揚げ政策において
1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効によって日本が主権を回復すると、引揚げ事業は日本政府の自主的業務となった。それに先立つ3月28日に政府は「海外邦人の引揚げに関する件」を発し、その後の引揚げ事業に関する方針を打ち出している[v]。
そうした中、日本政府にとって大きな懸案となっていたのが、ソ連に抑留されている日本人の引揚げであった。「米ソ協定」によるソ連管理地域からの引揚げは1950年4月22日を最後に終了していたが、厚生省は「終戦時の在留邦人272万6000人に対し、引揚者は235万7000人で、なお36万9000人が未引揚げ」として、引揚げの再開をソ連に対し強く求めた[vi]。日本政府のこうした「熱意」が、日ソ共同宣言における未帰還日本人の引揚げへとつながっていったのである。
前述のように、この時日本政府は日本人女性を妻に持つ朝鮮人の引揚げも認めた。しかし、それは日本人妻の同伴者としてやむなく認めたに過ぎなかった。そして、日本政府のそのような意識は露骨な差別となって表れた。前述の「韓国人会」の設立者朴魯学氏はこの時に日本に引揚げたが、その際妻と子供には帰還手当と帰還旅費が支給されたのに、朴魯学氏には全くそれがなかった。そればかりでなく、日本上陸後の引揚げ列車内での弁当支給においても、彼だけが除外されたという。彼はこの時の気持ちを「みじめで悔しい出来事だった」と語っている[vii]。
また、当時の日本政府の意識を如実に示す外交文書が2000年12月に公開されている。それは韓国政府からの在サハリン韓国人の引揚げ要請に対して1957年8月9日付で外務省アジア局第一課が作成したものであるが、そこには外務省幹部の言葉で「それ以外の朝鮮人の引揚げは見当違いもはなはだしく、世論の反撃にあう」「朝鮮人は何ら日本人と差別待遇を受けていたわけでなく、日本人も徴用を受けていた、むしろ朝鮮人は終戦近くまで兵役免除の特典を受けていた」「戦後、朝鮮人は解放者として威張りだした」などと記されているという[viii]。そこには朝鮮人への偏見が実によく表れている。
日ソ共同宣言に基づく集団引揚げの対象となった朝鮮人は全体からみてごく少数に過ぎず、それ以外の朝鮮人の帰還に対しては、日本政府は相変わらず何の策も講じようとしなかった。その際に法的根拠とされたのが、サンフランシスコ平和条約発効による「日本国籍の喪失」であった。
象徴的な例が、サハリン・トマリ在住の許照氏の帰還申請に対する扱いである。彼は1962年9月からソ連当局に対し出国請願を繰り返し、11月には「日本が入国を許可すればソ連は出国を許可する。日本入国については在ソ日本大使館と連絡をとるように」との回答を得た。そして他の13人とともに在ソ日本大使館に帰還申請をしたが、日本大使館は「日本国籍の離脱」を理由に旅券の発行を拒否した[ix]。
しかし、「日本国籍の喪失」を法的根拠とするのであれば、日本人妻と朝鮮人夫、その子供の入国は認めて、他の朝鮮人の入国は認めないことには疑問が残る。なぜなら、平和条約発効時の国籍処理は戸籍を基準になされたのであるが、それ以前に朝鮮人男性と婚姻した日本人女性は朝鮮戸籍に入っており、子供もそれに従うため、平和条約発効時に「日本国籍を喪失」したはずからである[x]。従って、「日本国籍の喪失」は朝鮮人の日本入国を拒む根拠にはなり得ず、日本政府の措置は「血」による差別ということになる。血統的日本人に対しては「日本国民」でなくなっても手厚く保護しようとするが、朝鮮人に対しては「日本国籍の喪失」という「建前」を振りかざして何の策も講じようとしない、というのが日本政府の姿勢であった。
第二節 「日本は通過のみ」の「原則」
前述のように、1960年代後半あたりから韓国政府が帰還問題の解決を日本政府に促すようになり、国会でこの問題が取り上げられるようになると、日本政府の対応にも若干の変化がみられ、ソ連に対して首相、外相レベルで問題の解決を要請するようになった。
そうした中、1972年7月12日には民社党の受田新吉衆議院議員が「徴用により樺太に居住させられた朝鮮人の帰国に関する質問主意書」を衆議院議長宛てに提出し、「政府は、人道的、かつ戦後処理問題の解決として、これら朝鮮人の帰国について何らかの便宜を供用する必要があると考えるが、その用意はあるのか」と問うている。そして7月18日にはその質問に対する田中角栄首相の答弁書が提出された。同答弁書は1960年代後半から80年代にかけての日本政府の基本姿勢を如実に示すものである。
田中首相は「人道的問題として真に同情を禁じ得ない。(中略)政府としては現在でもこの問題に深い関心を有するものであり、右引揚げの実現につきできる限りのことはしたいと考えている」とし、「本件につき機会をとらえてソ連政府に対し配慮方要請を行ってきており、今後とも続けていきたい」としながらも、その最後には次のように述べている。
「1、日本は単に通過するのみで全員韓国に引揚げさせる。
2、引揚げに関する費用は一切韓国側において負担する。
の二点をとりあえずのラインとして外務省、法務省など関係官庁において検討させることといたしたい。」[xi]
つまり、「人道的問題として」考えるものの、強制的に連行し、帰還させる努力を怠ったことに対する責任感は希薄で、具体的施策のことになるとまるで他人事扱いというのが日本政府の姿勢であった。当然、このような日本政府の姿勢に対し、韓国政府は強く反発した。こうした日韓両政府の対立のはざまで、1976年にはソ連から出国許可を得た4人の老人男性がナホトカの日本領事館まで来て日本の入国許可を申請したが、韓国入国の許可が出てから日本への入国許可を出すとする日本政府とそれに反発する韓国政府が対立している間に、ソ連から得た出国許可の最終期限が切れ、4人はやむなくサハリンに戻り、そこで一生を終えることになってしまったという事件も起こっている[xii]。
このように、日本政府の責任意識は希薄なままであったが、前述のように1970年代半ば頃から帰還問題に対する世論の関心が高まってくると、国会では「道義上の責任」を意識した発言がみられるようになってきた。1976年1月22日の参議院決算委員会では、民社党の田渕哲也議員の質問に対して稲葉修法務大臣が「日本国に原状回復の形で復帰させることは、道義上の責任として残っているように思うんでございます」と答弁し、1978年3月2日の衆議院内閣委員会では、社会党の栂野泰二議員の質問に対して園田直外務大臣が「人道的、さらに法律的以上の道義的責任、政治的責任があって、(中略)政府はあらゆる努力をして、こういう(サハリンに残された―筆者注)方々の御希望に沿うようにしなければならぬと考えております」と答弁している[xiii]。
こうした中、日本政府の方針にも若干の変化がみられた。「サハリン裁判」提起の機運が高まってきた1975年8月には、サハリンの朝鮮人が日本入国のための渡航証明書を申請した場合、審査を経た上で入国を認めることとし、「韓国人会」に渡航証明書の発給申請書2000部を交付した。この時、「資力のある者」が身元保証人となり、かつ申請者に「内地」居住歴がある場合には日本在留を認めたが、韓国への帰国には韓国政府からの入国許可を条件とし、基本的に先の「田中答弁書」に示された「原則」は変わらなかった。こうした条件の下、1978年3月までに137世帯438名(韓国永住希望者―123世帯392名、日本永住希望者9世帯35名)が日本入国を申請し、124世帯411名(韓国永住希望者―115世帯376名、日本永住希望者―9世帯35名)に入国許可が下りたが、1970年代後半からのソ連の態度硬化もあって、日本入国が実現したのはわずか3名(2名が日本へ定住、1名が韓国へ帰還)であった[xiv]。
結局、国会での論議、そして渡航証明書の大量発給も即帰還実現に結びつくものではなかったのである。それにはソ連の態度硬化もかなり影響したと言えるが、やはり日本政府が具体的施策の実行を怠ったという問題は残る。国会においては政府側委員の答弁以上の進展は見られなかったし、渡航証明書の発給も「日本政府が面倒を見なくてもいいのなら帰還を認めましょう」という程度のものであり、積極的な施策とは言い難い。
日本政府が具体的施策を行うようになるのは1980年代後半以後のことであった。その背景には、ゴルバチョフ政権によるペレストロイカの進行、そして1987年7月に結成された「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」の活動があった[xv]。1987年度予算には「サハリン残留韓国人問題関係費」として、初めてこの問題に対する国家予算が組まれ(227万円)、以後増額されていった[xvi]。そして、1988年10月には法務大臣が在サハリン朝鮮人の帰還について1年間の特別在留許可を出すこととなり、これは更新可能であったため、事実上日本での永住も可能になった。「田中答弁書」から16年、ようやく「日本は通過のみ」とする「原則」が改められたのである[xvii]。
この間、北朝鮮の反対、ソ連の態度硬化が帰還を妨げる要因となったことも事実だが、日本政府が積極的な施策を行っていれば、事態は少しでも好転していたのではないかと思う。実際この時期にあと一歩のところで帰還への望みを断たれた人が少なからずいたことは、そのことをよく示していると言えるのではないだろうか。
以上の考察から、サハリン朝鮮人棄民問題を巡る日本政府の対応は極めて不十分なものであったと言えよう。その根本的要因には朝鮮人への民族差別、血統的日本人への偏愛、植民地支配に対する責任意識の欠如があると私は考える。こうした傾向は戦後処理問題全般においてみられるものであった。そこで、次章ではこのことについても検討したい。
[i] 樺太裁判実行委員会『樺太裁判資料(Ⅰ)』、1976年、8頁。
[ii] 樺太炭の利用が断念された1944年<, /SPAN>8月11日に「樺太及釧路ニ於ケル炭礦勤労者、資材等ノ急速転換ニ関スル件」が閣議決定され、南サハリンから坑夫7354人、運搬夫1950人、幹部347人が日本本土に転用となった(角田房子、前掲書、34頁、及び林えいだい、前掲書、140―141頁)。この頃には朝鮮から妻子を呼び寄せた労働者も増えていたが、「内地転用」の際に家族の移動までは考慮されず、家族離散の問題が生じた。そのため、「内地転用」となった朝鮮人たちが、サハリンに残された家族の消息がわからないうちは朝鮮へ戻ることはできないとGHQに訴えたのである。
[iii] 厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』には、「ソ連軍管理地域外の各地からの引揚げは(中略)きわめて順調に進捗していたが、ソ連軍管理地域における日本人の保護及び引揚げはまったく見とおしがたたなかったので、政府としては、ソ連軍管理地域における日本人の保護及び引揚げについてしばしば連合国軍総司令部に要請を行っていた」とある(同書97頁)。
[iv] 以上、大沼保昭、前掲書、28―35頁参照。
[vi] 厚生省援護局編、前掲書、103―104頁。
[vii] 高木健一編著『待ちわびるハルモニたち』、29-30頁。
[viii] 高木健一『今なぜ戦後補償か』、講談社現代新書、講談社、2001年、17―18頁、及び、吉翔・片山通夫、前掲書、9―10頁から重引。
[ix] 日本弁護士連合会、前掲書、9頁、及び大沼保昭、前掲書、61―62頁。
[x] 植民地支配期の戸籍制度では、日本人は「内地戸籍」、朝鮮人は「朝鮮戸籍」、台湾人は「台湾戸籍」と区別されていた。そして、婚姻や養子縁組などの身分行為の他は戸籍の移動はできなかった。身分行為による戸籍の移動の際は「共通法」という法律により、婚姻の場合は妻が夫の戸籍に、養子縁組の場合は養子が養親の戸籍に入る、とされた。サンフランシスコ平和条約発効時における国籍処理はこうした戸籍を基準に行われたのである。その際、条約発効直前の1952年4月19日に出された法務府民事局長通達民事甲第438号「平和条約に伴う朝鮮人、台湾人などに関する国籍及び戸籍事務の処理について」の第1項(3)では、「もと内地人であった者でも、条約の発行前に朝鮮人又は台湾人との婚姻、養子縁組などの身分行為により内地の戸籍から除籍せらるべき事由の生じたものは、朝鮮人又は日本人であって、条約発効とともに日本の国籍を喪失する」と規定された(宮田節子・金英達・梁泰昊『創氏改名』、明石書店、1992年、42頁。法務府民事局長通達民事甲第438号に関しては日本弁護士連合会、前掲書、80頁所収の資料より重引)。
[xi] 「昭和47年7月12日提出質問第2号」及び「昭和47年7月18日受領答弁第2号」。いずれも船田中衆議院議長宛てとなっている。日本弁護士連合会、前掲書、69―73頁に所収の資料より抜粋。
[xiii] 国会会議録検索システム http://kokkai.ndl.go.jp/ より。
[xiv] 大沼保昭、前掲書、133頁、及び井上昭彦「サハリン残留朝鮮人に帰還の道を」『季刊 三千里』41号、三千里社、1985年、96頁。
[xv] その活動については、サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会編『サハリン残留韓国・朝鮮人問題と日本の政治』(1994年)参照。
[xvi] 1988年度は834万円、89年度には5800万円、90年度には1億333万円、91年度には1億2000万円、92年度には1億2537万4000円、93年度には92年度と同額のサハリン関係予算が組まれた。